懲戒処分を背景に退職を促した対応が適法とされた裁判例
事案の概要
本件は、医療法人A病院の元従業員(以下、「控訴人」)が、自身の退職について違法な退職勧奨が行われたとして、上司である事務部長および主任科長(以下、「被控訴人ら」)に対して損害賠償を請求した事案です。
控訴人は、在職中に複数の非違行為(無断の無償発注、取引業者との過度な私的関係、情報漏洩、パワハラ、他院への誹謗中傷、無断出張など)を行ったとして、病院から調査を受けました。その調査にあたり、被控訴人事務部長は控訴人と面談を行い、懲戒処分の可能性に言及したうえで、控訴人に弁明の機会を与えました。さらに3日間の熟慮期間を設けて再度面談し、控訴人の自主的な判断により退職するかを確認しました。
控訴人はこの対応を「社会通念を逸脱した違法な退職勧奨」であり、自らの退職は自由な意思に基づくものではなく、精神的苦痛を受けたとして、600万円の慰謝料を求めて提訴しました。また、主任科長についても、非違行為に関する虚偽の情報を事務部長に提供するなどして、違法な退職勧奨に加担したと主張しました。
第一審で請求が棄却され、控訴人はこれを不服として控訴。札幌高等裁判所は控訴審でも請求を棄却し、最終的に判決は確定しました。
判例のポイント
本判決の要点は、「退職勧奨が直ちに違法となるわけではない」という基本原則の再確認と、「懲戒処分を背景とした退職勧奨が、状況次第では適法と評価され得る」ことにあります。
札幌高裁は、退職勧奨が不法行為に該当するか否かの判断基準として、①虚偽の事実を用いたか、②強圧的・執拗な方法で行われたか、③従業員の自由意思を妨げる態様であったか、を重視しました。
本件では、控訴人が行ったとされる行為について、就業規則に照らして懲戒処分の対象とされる可能性が十分に存在していたと認定されました。無断発注や情報漏洩の件に関しても、病院側は複数の職員および取引業者からヒアリングを行っており、調査に一定の客観性が認められたためです。
さらに、面談の対応としても、事務部長は控訴人に弁明の機会を与え、言い分を遮ることなく聴取し、熟慮期間を経て任意の意思表示を引き出すなど、手続き面での適正があったと評価されました。
また、控訴人が「処分される」と思い込んでいた点について、裁判所は、事務部長が虚偽の説明をしたわけではなく、控訴人自身の主観的な解釈にすぎないと判断しました。主任科長についても、病院内部の調査に協力する立場として行った情報提供が不法行為とはいえず、虚偽報告の証拠もないとされました。
以上から、退職勧奨はあくまで社会通念上相当な範囲であり、不法行為には当たらず、したがって精神的損害に対する慰謝料請求も認められないとされたのです。
まとめ
本判例は、企業が従業員に退職を勧奨する際に注意すべき点を明確に示しています。懲戒処分の可能性を背景とする退職勧奨であっても、手続きの妥当性と内容の正当性が確保されていれば、違法とはされないことが確認されました。
まず、退職勧奨において重要なのは、従業員に対して事実に基づいた説明を行い、弁明の機会を与え、圧力ではなく任意の判断を促すプロセスです。特に、複数回の面談や熟慮期間の確保といった「意思決定の余地」を保障する配慮が法的リスクの回避につながるといえます。
また、懲戒処分を仄めかす場合には、それが就業規則上どのような根拠に基づくものか、第三者から見ても合理的な説明ができるよう証拠の整理が重要です。調査プロセスの客観性、証言や書類の整備などが、後の訴訟で企業側の主張の正当性を裏付ける鍵になります。
さらに、現場の管理職が提供する情報についても、業務の一環として適切に行われていれば、不法行為と評価されるリスクは低いことが、本件からも読み取れます。ただし、個人的な意図や私情が介在しているように見える場合には、逆に企業側の責任が問われかねません。
社労士や人事・総務担当者は、本件を踏まえ、退職勧奨に関する社内マニュアルや研修内容の見直しを検討する価値があります。従業員の自発的な判断を尊重しながら、リスクを最小限に抑えるための制度設計が今後ますます求められるでしょう。